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大学にて

大学とは女子大生の巣窟である。女子大生は大学を棲息の本拠としており、女子大生は大学でしか誕生しない。しかし、女子大生は大学の外に出ても環境に適応する。むしろ、大学内での女子大生の価値は、相対化が不十分なためにデフレーションを起こしている。外界に息づいているおじさんなどは、飲み屋などで「お〜若いのがきたよ!景気がいいね!」とビールをさらに呷り、やたら隣に来るように勧める。大学内ではデフレもいいところの女子大生だが、そういう場においては己の価値を隅々まで把握し、『嬉しいけどでも初対面だからちょっと遠慮しつつ愛想振りまこ!』みたいな振る舞いをナチュラルボーンに発揮する。女の本能。

一方、大学とは男子大学生の巣窟でもある。女子大生の価値が恐ろしく高いのに比べ、男子大学生の価値は地べたを這いずり回るというか、そもそも低すぎて困っていたところが年々下落している。その社交性のなさや、コミュニケーション能力と勘違いされたイキリ散らかし、まだなんとなく思春期が抜けていない女子に対するいやらしい目線、声がでかければ面白いと思っている幼稚な価値観、要するにうざい割にくだらないパースペクティブから抜け出せていないのだ。そういうところがマジ良くないと思うけど俺も男子大学生の一員なんだよね。鬼ッラ、、

そのそれぞれの価値の差異にもかかわらず、女子大生は男子大学生と恋をし、むず痒い時期を越えて性的な蜜月を過ごし、なんとなく倦怠を感じて別れる。嘆かわしいとは思わないが、なんとも言えない侘しさ、諸行無常とはこのことである。そしてその諸行無常は繰り返される。繰り返される諸行無常、蘇る性的衝動。冷凍都市の暮らしで、いつもあいつが姿をくらます。向井秀徳の慧眼に恐れ入るばかりだ。

今のところ、透明少女は見当たらない。だってまだゴールデンウィークになっていない。五月も半ばになれば、赤い季節が到来を告げるのだろうか。気付いたら俺はなんとなく夏なのだろうか。どんなあの子が透明少女か。

 

尻の話

尻がある。人間には尻が備わっている。

道を歩けば視線の先には尻があるだろう。そんなことないという人はよく転ぶのではないだろうか。あまりまっすぐ地平線を見ると足元がおろそかになる。靴ばかり見ていては気が滅入ってしまうだろう。私たちがそこそこに人生を歩んでいく一番うまいやり方の一つとして、誰かの尻を見ながら歩くことが挙げられる。

尻を見ることに倒錯した欲情を覚える人間は多いと聞く。しかし、倒錯した欲情を覚える人間が多ければ、それは倒錯してなんかいないんじゃないか。それよりもおっぱいはでかければでかいほどよい、と言いながらグラビアアイドルの巨乳インフレを起こした人たちの方がよほど倒錯しているんじゃないだろうか。ああまで大きいおっぱいを見ると「フフっ」と笑ってしまう。苦笑に近い。照れ笑いほど喜ばしい類のものではない。小学一年生を子供扱いする小学六年生がふと笑うようなものだ。少しの羨ましさも伴う。

尻がある。己にも尻が備わっていることを重々承知している。

己の尻をまじまじと見る機会なんて、人生に何度もあるものではない。成人してしまってから、他人のみならず己の尻さえも顧みないような大人になったのか、と悲しくなった。己の尻を愛することができないようなおれは、愛する人の尻を愛することができるのだろうか、とふと思った。しかし尻一般に対して私は愛を抱いている。個別の尻に対する愛着の中でもとりわけ、己の尻に対する愛着がほとんどゼロに等しいことに気がついた。

これでいいのだろうか。深く思い悩み、右の尻たぶに触れた。子どものころ、己の尻を揉むことが嬉しくて仕方がなかった記憶がよみがえる。あんなに愛していた己の尻を、今では愛していない。これでいいのだろうか。良いはずがない。

その日から私はスクワットを始めた。一週間を過ぎたあたりから尻にハリが出てきた。さすがに肌ツヤは22歳だが、内部が確実に変化しているのを感じる。この人と近いうち付き合うことになるだろうと予感したときの電流に似た感覚があった。私は変われるだろうか。いや、変わるのだ。

一ヶ月を過ぎたあたりで、尻にエクボが出来るようになった。もともとそこまで太っていたというわけではなかったのだが、高校卒業以来、運動という運動から遠ざかっていた私の尻には脂肪が蓄積されていたらしい。尻のエクボもかわいいねって、笑い合えればそれが幸せなんじゃないか。私はそう思った。

しかし、さすがに尻をまじまじと眺めるのは、初めて付き合った人と楽しすぎて毎晩メールを送ってしんどくなるみたいな、バカらしさを感じるのでやらないことにしている。愛し始めた尻だからこそ、距離をとることだって必要なのだ。

現在、私と尻の関係はちょうどスープの冷めない距離を保ったままだ。

今度は誰かの尻を愛してみようかと考えている。もちろん、その尻の所有者に承諾を得なければならない。所有している尻を愛することを許可するには、かなりの愛が必要だと私は思う。私はそれだけの愛を受け止めることができるだろうか。それよりもまず、その尻の所有者を私は十分に愛することができるだろうか。

愛ってなんだろうと、真剣に考えてしまう。