尻の話

尻がある。人間には尻が備わっている。

道を歩けば視線の先には尻があるだろう。そんなことないという人はよく転ぶのではないだろうか。あまりまっすぐ地平線を見ると足元がおろそかになる。靴ばかり見ていては気が滅入ってしまうだろう。私たちがそこそこに人生を歩んでいく一番うまいやり方の一つとして、誰かの尻を見ながら歩くことが挙げられる。

尻を見ることに倒錯した欲情を覚える人間は多いと聞く。しかし、倒錯した欲情を覚える人間が多ければ、それは倒錯してなんかいないんじゃないか。それよりもおっぱいはでかければでかいほどよい、と言いながらグラビアアイドルの巨乳インフレを起こした人たちの方がよほど倒錯しているんじゃないだろうか。ああまで大きいおっぱいを見ると「フフっ」と笑ってしまう。苦笑に近い。照れ笑いほど喜ばしい類のものではない。小学一年生を子供扱いする小学六年生がふと笑うようなものだ。少しの羨ましさも伴う。

尻がある。己にも尻が備わっていることを重々承知している。

己の尻をまじまじと見る機会なんて、人生に何度もあるものではない。成人してしまってから、他人のみならず己の尻さえも顧みないような大人になったのか、と悲しくなった。己の尻を愛することができないようなおれは、愛する人の尻を愛することができるのだろうか、とふと思った。しかし尻一般に対して私は愛を抱いている。個別の尻に対する愛着の中でもとりわけ、己の尻に対する愛着がほとんどゼロに等しいことに気がついた。

これでいいのだろうか。深く思い悩み、右の尻たぶに触れた。子どものころ、己の尻を揉むことが嬉しくて仕方がなかった記憶がよみがえる。あんなに愛していた己の尻を、今では愛していない。これでいいのだろうか。良いはずがない。

その日から私はスクワットを始めた。一週間を過ぎたあたりから尻にハリが出てきた。さすがに肌ツヤは22歳だが、内部が確実に変化しているのを感じる。この人と近いうち付き合うことになるだろうと予感したときの電流に似た感覚があった。私は変われるだろうか。いや、変わるのだ。

一ヶ月を過ぎたあたりで、尻にエクボが出来るようになった。もともとそこまで太っていたというわけではなかったのだが、高校卒業以来、運動という運動から遠ざかっていた私の尻には脂肪が蓄積されていたらしい。尻のエクボもかわいいねって、笑い合えればそれが幸せなんじゃないか。私はそう思った。

しかし、さすがに尻をまじまじと眺めるのは、初めて付き合った人と楽しすぎて毎晩メールを送ってしんどくなるみたいな、バカらしさを感じるのでやらないことにしている。愛し始めた尻だからこそ、距離をとることだって必要なのだ。

現在、私と尻の関係はちょうどスープの冷めない距離を保ったままだ。

今度は誰かの尻を愛してみようかと考えている。もちろん、その尻の所有者に承諾を得なければならない。所有している尻を愛することを許可するには、かなりの愛が必要だと私は思う。私はそれだけの愛を受け止めることができるだろうか。それよりもまず、その尻の所有者を私は十分に愛することができるだろうか。

愛ってなんだろうと、真剣に考えてしまう。